7月29日、この日公開の映画「ゲド戦記」を見に行った。


この映画は、スタジオジブリ作のこの夏一番の話題作で、原作の大ファンである私にとっては、制作が決まったときから多くの期待と少しの不安が入り交じったものだった。もちろん前売り券も発売と同時に買っていた。
この日は、朝一番の上映から見に行った。これは、一刻も早くみたいというのもあるが、映画館で大声を出して騒ぐ、昨今の躾の悪いガキ対策でもある。
★注意事項★
以下、一部映画のネタバレがありますので、先入観を持たずに映画を見たい方は、これ以上は映画を見た後にご覧ください。
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この映画、おそらく商売上の理由から事前に数多くの情報が流されている最近のジブリ映画の例に漏れず、書店には原作を始め関連本が山積みになり、ジブリのサイトでは監督自身の制作日記を始めとする、制作状況のお知らせなどが氾濫しているので、先入観ぬきで見ることが、なかなか難しくなってきている。
それらを取捨選択して、あまり余分なもの(特に、無責任な批評の類)をカットしてきたが、それでも前情報として、この映画は“宮崎駿”氏の息子“宮崎吾朗”氏が監督すること、原作の第3巻「さいはての島へ」(下図)を元にしているということが判った。

なぜ監督が宮崎駿氏じゃないのか、まずその点に疑問が湧いた。氏は、20年以上前「風の谷のナウシカ」の頃から、この原作を映画化したいと公言していた。
おそらく、世界中探しても氏をおいて他に映画化できる人物はいないと思っていた。それが別の人、それもこれまで建築家や三鷹にあるジブリ美術館の館長をしてきた息子の宮崎吾朗氏と聞いたとき、私の中に“なぜ?”という言葉があふれ出た。おそらく誰もがそう思ったことだろう。
このあたりについては、ジブリのサイトで宮崎吾朗監督自身や鈴木敏夫プロヂューサーが語っているので詳しくは言わないが、監督日誌の第1回に高校生の頃ゲド戦記を読んだとき第1巻の「影との戦い」(下図)が一番おもしろかったと書いてあったことに共感を感じた。

どうやら、この人物は私が最初にゲド戦記を読んだときと同じ感覚を持っているようだ。それならば、できあがりを見てから文句を言ってもいいだろうと思ったので、公開を待つことにした。
その後、公開が近づくに連れ、各メディアでの宣伝が多くなり、否が応でも露出された情報に接していくと、登場人物にテナーとテルーの名前があったのに驚いた。
“待てー!テナーとテルーが出てくるのは第4巻の「帰還」(下図)だろう!!”

内心、そう叫びながら、また“いったいどんな仕上がりになるんだ?”という疑念と共に公開までの日々を過ごした。
そして今日、満を持して見に行ったところ、シネプレックスでは一番大きい劇場での上映と、これまで見たものと比べても優遇されていた。
しかし、上映が始って、宣伝が流れている間に劇場を見渡してみると、人の入りは満員とは言い難い状態で、せいぜい7分から8分の入りだった。
スタジオジブリ制作とはいえ、宮崎駿ブランドなくしては、客の入りも落ちるようだ。
さて、肝心の内容だが、冒頭の嵐に遭った船のシーンで、風の司が魔法が効かないと漏らした。その上空では2匹の竜が共食いを行っていた。世界に何か異常事態が起こっている。そう思わせるに十分なオープニングだ。
場面は変わって、エンラッドの国。ここでも異変は起きていて、家畜の大量死に続き新生児の死亡が増えてるとの報告が御前会議であり、それを憂慮し対策を講じようとする王。
その王を刺し、王の剣を奪って逃走する王子アレンと物語は進んでいく。
ここで、はて?と思った。「さいはての島へ」では、王子アレンは王の命により世界の異常の原因を明かすべく派遣されたはずなのに、親殺しの逃亡犯になっている。これは一体どういうことだ?
深く考える暇もなく、場面は“はてみ丸”に乗ったゲド(ハイタカ)が砂浜に到着するシーンになる。
ここで、陸に乗り上げて朽ち果てた巨大な船が出てくるが、これを見た瞬間、このシーンは見たことがあると思った。
そう、これは宮崎駿氏の「シュナの旅」(下図)の1シーンだ。

そう思いながら見ていくと、ゲドとアレンがたどり着いた大都市ポートタウンのシーンもシュナの旅に出てきた街と似ている点が多くあった。特に人狩りが奴隷売買をしているシーンは、シュナの旅そのものだった。
ポートタウンで、アレンは何かに怯えているような素振りを見せる。何か得体の知れない恐ろしいものに追われて逃げている。捕まれば終わりだ。そういった怯えが感じられた。
はて?これは、「影との戦い」のゲドではないか?
そうして物語は進んでいき、テナーの家にたどり着く。そこには親に虐待されて捨てられた少女テルーが居た。これはまさに「帰還」の話だ。
どうやら、この映画は「さいはての島へ」だけでなく「帰還」も混ぜているようだし、この後、アレンは迫り来る影に怯え、苦しめられる。これも「影との戦い」でゲドの役回りだったところだ。
宮崎吾朗監督は、どうやらこの映画に原作の持つ全てのエッセンスを詰め込んでいるようだ。いくら何でも欲張りすぎやしないか?
原作「さいはての島へ」では、ゲドとアレンはポートタウンを離れ、西の果てにある島へと旅立っていくのだが、この映画ではそれは無く、町はずれにある、魔法使い“クモ”の館での戦いとなった。
魔法使いクモは、かつて禁忌を犯し、金次第で死者の魂を呼び出す術を使っていたのを、ゲドによって懲らしめられたことを逆恨みし、今度は生死の境を隔てている扉を開けることにより、不死の力を得ようとしていた。
原作では、ゲドとアレンは竜のオーム・エンバーと共にクモと対決し、黄泉の国へと行き、生死両界を隔てている扉を閉めるのだが、映画ではこのシーンはなく、「帰還」にあったような、ゲドを城壁の上から突き落として殺害しようとするクライマックスとなっていた。
私が一番のシーンだと思っている黄泉の国での対決を、映画では削られたのは、大いに不満だった。
何より、“ゲドが主役じゃない映画をゲド戦記と呼んで良いのか?”という点が最大の問題点だろう。
また、この映画ではゲドは“大賢人”と呼ばれていた。確かに原作でもそう呼ばれていたのだが、彼にはもう一つ呼び名があった。それは“竜王”といい、竜と話のできる者という意味だ。
ゲド戦記の世界アースシーでは、現実の世界と異なり、竜が実在する世界だ。もちろん、竜は人間以上の知性体なので、無益な争いを避けて人間とは棲み分けをしてるため、人の目に触れることはほとんど無い。
しかし、まれに人間界へやってきて災いをまき散らす無頼の徒もいて、これらと交渉し、場合によっては撃退できるだけの力を持った者だけが“竜王”と呼ばれる。
映画では、竜そのものが、あまり登場しなかったため、ゲドの持つ力が発揮されることがなかったことも不満の一つだ。
さて、ここまで、映画を見ての原作との相違点や不満点を上げてきたが、ここでふと思った。
これらの感想は、あくまで私が原作、それも第3巻「さいはての島へ」までのファンであり、これまで読んできた内容が、全て私の目にフィルターとして掛かっているためであることは間違いないだろう。
このフィルターを完全に払拭することは不可能だが、自分なりに中立的な考えをしてみると、宮崎吾朗監督が、この映画「ゲド戦記」で描きたかったのは、アースシーの世界に仮託しているが現代社会の病巣ではないかと思われる。
アレンの親殺しや、テルーの受けた虐待やネグレスト(育児放棄)などは、最近の日本でも問題となってきていることであり、これまでバランスを保ち健全だった人間社会が音を立てて崩れ始めたことに他ならない。
もちろん、この問題はアニメーション映画を見る年齢層の大多数を占める中学生や高校生には重すぎる課題であるが、それぐらいの年齢から問題意識を持たないと、解決することができないこともまた事実だ。
果たして、宮崎吾朗監督が、そこまで考えた上で作ったのかは判らないが、の映画の裏にはそこまで考えさせられるものがある。
では、もし、このフィルターのない人がこの映画を見たとき、果たしてどんな感想を持つのだろうか?
可能なら、原作を知らない人の感想を聞いてみたいものだ。おそらく、そこにこの映画の真の評価が現れるだろう。
また、おそらく誰もが思うことだろうが、この映画を宮崎駿氏が監督をしていたらどんなものになっただろうか?
こちらは、ある程度想像がつく。宮崎駿氏は、どうも最近(具体的には紅の豚以降)作家としての力が衰えてきているのではないかと思われる。
例えば、「ハウルの動く城」は、昔の作と比べると映像はきれいになったが、内容が薄く、話の流れも強引で、見ていておもしろくなかった。
また、「ハウルの動く城」にしろ、「千と千尋の神隠し」にしろ、魅力的な悪役が欠けている。
荒地の魔女も湯婆婆も当初は悪役として描かれていたが、突然善人になってしまい、興ざめしたキャラクターに成り下がった。
やはり「ルパン3世カリオストロの城」に登場したカリオストロ伯爵に匹敵する悪役の存在が、物語を引き締めるのだが、近年の宮崎駿氏の映画には、どういうわけかこの点が欠けてきた。
それに対して、「ゲド戦記」では、魔法使いクモという、カリオストロ伯爵に比べれば粒は小さいが諸悪の根元のようなキャラが存在し、非常に楽しめた。その点は宮崎吾朗監督を評価できる。
これらの事から考えるに、「魔女の宅急便」以前、それこそ「風の谷のナウシカ」の頃の宮崎駿氏だったら、もっと良いものが作れただろうと思うが、最近の宮崎駿氏では、もっと出来の悪いものになったと思われる。
この他、エンディング・クレジットまで見ていると、原作「ゲド戦記」の他に原案「シュナの旅」と表示されていた。
後からパンフレットを見ても、そのことは書かれていて、『映画「ゲド戦記」は、心と体はル=グウィンから、そして骨は宮崎駿からもらった。』とあった。
骨に当たる部分は、「シュナの旅」だけでなく、「風の谷のナウシカ」もあると思うのは私だけではないだろう。
結論としては、この「ゲド戦記」は私が期待しているような映画ではなかった。だが、完全な失敗作と片づけてしまうこともできないものでもある。
あえて言うなら、似たようなテーマの映画では、私は「風の谷のナウシカ」の方が好きだし、良かったと思う。それが私の素直な感想だ。
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